”愛する"とは、繰り返したいと思える瞬間を増やす行為なのかもしれない。
そんなセンチメンタルなことを思いながらこの文を書いている。
8月24日、36度という気が狂いそうな暑さの中、東京都写真美術館に行った。
(久しぶりに晴れた日に美術館に行った気がする)
目当ては「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971- 2017-」
『センチメンタルな旅』『東京は、秋』をはじめとした、荒木氏の妻「陽子」をテーマにした作品を集めた展覧会。
展覧会は時系列に写真が並んでいる。出会いから新婚旅行、夫婦の日常生活、のように。
そして現れるのが食事の写真群。この辺りから、写真から醸し出される雰囲気がどことなく変化してくる。
その後に待っているのは「陽子」の死だ。
私の涙腺は我ながらトチ狂っていると思うのだけれども、案の定この辺りで涙腺が決壊する。
誤解を恐れずに端的に言うと、「陽子」の死が悲しかったわけではない。
写真から痛いほどに伝わってくる”愛”とでも言えばいいのか、なんというか多分そのようなものの気配が、心を締め付けたのだ。
人がシャッターを切るときはどういう時か。
おそらく、正の感情が沸き起こった時なのではないかと思う。
人は美しいものを愛する。だから、美しかったり愛しかったりする瞬間を切り取って保存したくなるのだ。
(もちろん汚いものや恐ろしいものを撮ることもあるが、それもある種の”美”に対する畏怖の表現手法だと個人的には思っている。)
展覧会にある写真は、一般的に言う”美”に当てはまるものばかりではない。
憮然とした顔、疲れた姿、散らかった部屋、片付けきれていない靴下…など。
私だったらこれを撮れるだろうか、と考えた。撮れないな、と思った。
この一瞬に、切り取ってとっておく価値を、私だったら見出せないなと思ってしまった。
でもそれらの写真にも、アラーキーの”愛”は詰まりに詰まっていた。
「陽子」を写したものや「陽子」の気配を感じさせるものからは、それが痛いほどに伝わってくる。
「この人の、この人のいる場所のどんな瞬間をも切り取りたい」と切実に思えるような誰かと共に生きることの愛しさ、幸せ、そして哀しさ。
あまりにも尊く、鮮烈で、バルコニーの写真群の前、立ちすくむしかなかった。
”天才アラーキー”が天才たる所以は、様々なものを心底愛せることにあるのかもしれない。
展覧会の終わり、迷いに迷って一冊だけ写真集を購入した。
巻末のインタビューにはこうある。
写真っていうのは”現在”がないんだよ。全部すぐ”過去”になっちゃうの。ところが、見るときにはまた全部”現在”になるんだよ。
再びこの瞬間を味わいたいと思える誰かとの時間を、大切にして生きていきたい。
たとえ手元にカメラがなくても、心の中でたくさんパシャパシャと写真を撮っていきたいなと、思った。
ほら、写真は愛だろ?
ー美術手帖2017年8月号