本と美術館

私と哲学

哲学に救われ、哲学に生かされたと言っても、過言ではないと思っている。

哲学は私の生活の一部であり、人生の一部であり、私の構成要素の一部である。

 

大学4年の前期も終わりに近づき、卒論という壁に突き当たっている今は、自分が4年間で何を学んできたのかを、見つめ直す時期とも言えるかもしれない。

「何を勉強しているの?」と聞かれた時、私はいつも「政治哲学」と答える。

この、何の役にも立たないとも言われがちな「哲学」というものを、私はなぜ学んでいるのか。

なぜ哲学に惹かれ、哲学書に没頭し、哲学的に考えることを愛しているのか。

そのことを少しばかり、書いてみたいと思う。

(なお、文学部の哲学科に在籍しているわけではないことはあらかじめご了承いただきたい。)

 

 

幼い時より、多少、周囲の人よりも様々なことに悩むたちだった。

特に、数の概念には今も昔も苦しめ続けられている。

まず、1+1がわからなかった。1ってなんだ?2ってなんだ?数ってなんだ…?

そう思ってしまって、「1+1=2」であるということを「理解」できなかった。

悩んでも悩んでもわからなくて、とりあえず、自分の中で"理解"したことにした。

それでもやっぱり、今でも−の概念にはいつも戸惑うし、割り算やかけ算をする時には、一旦÷や×を概念のレベルにまで戻って考えないと納得ができない。

虚数など出てきてしまった時には発狂しようかと思うほどだった。

 

言葉というものも、時に私を苦しめてきた。

書物の活字も、(私の恩師の言葉を借りれば)「紙の染み」にすぎない。

なのに私は、その「紙の染み」から意味を感じ取る。

しかも同じ「紙の染み」であっても、言語が違えば全く理解ができなくなってしまう。

ひらがなカタカナ漢字とアルファベット。それしか私は「文字」だと認識できない。

「文字」と認識できても、意味を感じ取れるものは僅かだ。漢字であっても、中国語は「理解」できない。アルファベットでも、英語とフランス語は多少は読めたり読めなかったりするが、ドイツ語やイタリア語になればてんで検討もつかなくなってしまう。

なんと気持ち悪く不思議なことなのだろうか。今でも時折、活字に耐えられなくなることがあって、吐き気が止まらなくなってしまう。本が好きで好きでたまらないのに。

 

「普通」という概念には、日々息苦しさを覚えていた。

何が"フツウ”なの…?世の中の平均値…?でも、どうして、数字ではないものを平均化できるの…?

"フツウ"を求められる度に苦しかった。なんとか自分なりに"普通"と折り合いをつけ、他者と関われるようになったのは、今思えば高校1年生くらいだったのかもしれない。

いつも、家に帰って自分の部屋に入るとどっと疲れていた。小説の世界に逃げていたのは、きっと世の中とうまく折り合いをつけるためだったのだと思う。あれは儀式だったのだ。

 

 

そんな私が初めに出会った哲学者は、ソシュールだった。

彼を哲学者というか、言語学者というかは難しい問題だが、彼の構造主義的な言語哲学は、私の世界観を変えた。(言語学者の鈴木孝夫氏の書籍にも非常に救われた。)

言葉は世界を切り取り、それを知覚の対象にするということ。つまり、言葉が見えるものを形作るということ。

それを知った瞬間、私の世界は変わった。

その頃、自分の言葉と他者の言葉とは完全に同じものではないのかなと、漠然と思っていた。だって、触れてきたものが違えば、そりゃあ知っている言葉も違う。

小学生の時から毎日5冊の本(この冊数が小学校の図書館の貸し出し上限だった)を貪るように読み、中学でも高校でも暇さえあれば本を手にしていたのだから、さすがに多少は他の人よりも言葉を知っているという自負があったのだ。今思うと恥ずかしい傲慢。

私の見ている世界と、他者の見ている世界は違うかもしれない。そう思うと、少し気楽になった。同時にとっても、怖くなったけれども。

 

じゃあ私は一生、他者と分かり合えないのか。

本質的に、完全に、他者を「理解」することはできないのだろうか。

この悩みは私を四六時中と言ってもいいほど苦しめていた。

誰かを「理解」したかったし、誰かに「理解」されたかった。

自分のことがうまく伝わらなかったり、他者のことをうまく知れなかったり、そういったことがひどく辛かった。

その時に出会ったのはレヴィナスだった。

正直に言えば、レヴィナスは今でも勉強中である。私の頭脳には難しすぎる哲学者だと思っている。

でも、レヴィナスの「他者論」が私のことを救ってくれたことは事実である。

他者は絶対的に他なるものである、という諦念にも近いように思えるこの言葉は、同時に、絶対的に異なるからこそ真摯に向き合おうという心意気を感じさせる。

「他者」と「私」とは絶対的に異なるのだと考えると、楽になった。

自分が目指すべきゴールは、完全に「理解」することではないのだなと、そう折り合いがつけられたのだ。

 

そんな風に、この世の中の分からないこととの折り合いを、哲学によってつけてきた。

様々な哲学に関する書籍を読むようになって、アリストテレスの時代から、膨大な叡智が結集されても「理解」されていないことがたくさんあることを知った。

今も、学べば学ぶほど、「真実」がどこにあるのかが分からなくなっている。

「正義」とは何か。「国家」とはどうあるべきか。「倫理的」であるとはどういうことか。「平等」とはどういうものか。「公平」とはどんな状態か…挙げればきりがない。

それらのなかに、何一つとして、私が自信を持って答えることのできるものは、無い。

 

けれども、偉大なる先人が自分の前に必死で(それこそ文字通りに命をかけて)考えてきたのだという事実に、私は日々、救われる。

 

 

哲学的に考えるということは、時に大きな苦痛を伴う。

愛とはなんぞやと考えずとも、"恋愛"をすることは可能だ。

幸せとはなんぞやと考えずとも、"幸せ"を感じて生活することは可能だ。

正しいとはなんぞやと考えずとも、何かを"正しい"と判断することは可能だ。

むしろ、考えない方が、楽に息をしていけるのではないかと思う。

 

でも。私は考えずにはいられない。

辛くても、苦しくても、泣きそうになっても、毎日毎日、様々なことを考えてしまう。

それは不幸なことなのかもしれない。

考えないで生きられれば…と思うこともある。

ただ、私は哲学に出会わなければ、深い深い絶望に囚われて、とっくのとうに命を捨てていただろうということ。

それはきっと「真実」だ。

 

哲学は私にとって、この世界を生き抜くための地図のようなものだ。

広大な世界を目にしても立ちすくまずに、なんとか少しずつでも進めるのは、先人たちの叡智の結集である哲学書を抱きしめているからだ。

哲学にとって私は「他者」だし、私にとっての哲学も「他者」だ。

他者の思考を「私」のものにすることはできない。

だからこそ私は安心する。「私」のものではないから、素直に愛せるのだ。

 

これからも私は、哲学を抱きしめて生きていくのだと思う。

この世の中で生きにくさを感じている誰かにも、哲学が寄り添ってくれることを、心から望む。