本やら美術やら舞台やらが好きな人が、ひたすらに好きなものへの愛を叫んだり叫ばなかったりするブログです。読書歴は(http://booklog.jp/users/naneko)

美術品が「在る」ということ ー東京都美術館「ボストン美術館の至宝展」ー

幾分か前にはなるが、東京都美術館の「ボストン美術館の至宝展」に赴いた。

 

私は、東京都美術館がとても好きだ。 

素晴らしい美術品を、1人でも多くの人に観てもらおう!というような気概のようなものを感じ取れるところに魅力を感じる。

 

前回の「バベルの塔展」も、ブリューゲルの《バベルの塔》を全面に押し出しつつ、他のネーデルランド美術をも魅力的に紹介していた。

今回の展覧会でも、フィンセント・ファン・ゴッホの《郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン》・《子守唄、ゆりかごを揺らす オーギュスティーヌ・ルーラン夫人》の二作を特に推しつつ、多様な時代・地域の作品を紹介している。

一見バラバラな作品群は、ともすれば脈絡なく並べるだけになりそうなものである。

しかしそこに"コレクター"という切り口を取り入れることで、纏まりのある展示にしていたように思う。

(おそらくここには借り受けるためのストーリー作りという面もあるのだろう。)

 

解説の丁寧さも都美の魅力だ。

英一蝶の《涅槃図》は、解説を見ながら鑑賞すれば数時間はそこにいられるのでは?と思うほど。

 

 

今回の「ボストン美術館の至宝展」は、普段意識することの難しい "そこに美術品が在ることの有難さ"を感じた展覧会だった。

美術品が生み出されるためには、当然ながら創作をする芸術家がいて、(たいていの場合)その芸術家を支援する人がいなくてはならない。

そして生み出された美術品が在り続けるためには、その品に価値を見出して、大切に扱う人がいなくてはならない。

 

そのような人たちがいたからこそ、今の私たちも美術品を目にすることができる。

(美術館が価値あるものを収集するための支援をしてくれた人たちがいたから、とも言える。)

西欧諸国からしては蛮族の国であっただろう日本の、蛮人である日本人が生み出した美術品。それに価値を見出してくれたコレクター達がいなければ、日本画や陶磁器はガラクタとしてずさんに扱われていたかもしれない。

まだ日の光を浴びていないゴッホの絵画を収集したコレクターたちがいなければ、今私たちがゴッホの作品を目にすることは難しかったかもしれない。

 

美術品がそこに在ることは当たり前ではない。

それを大切に思い、守り、ファンでい続けた人たちがいたからこそ、そこに在る。

そしてその偉大なコレクターたちの思いを受け取り、美術品を守り続けている場所が美術館だ。

そこに足を運ぶことはきっと、美術作品への貢献のあり方の1つなのだと思う。

 

 

写真は愛だ。ー東京都写真美術館「荒木経惟 センチメンタルな旅」ー

 

 

”愛する"とは、繰り返したいと思える瞬間を増やす行為なのかもしれない。

そんなセンチメンタルなことを思いながらこの文を書いている。

8月24日、36度という気が狂いそうな暑さの中、東京都写真美術館に行った。

(久しぶりに晴れた日に美術館に行った気がする)

目当ては「荒木経惟 センチメンタルな旅 1971- 2017-

『センチメンタルな旅』『東京は、秋』をはじめとした、荒木氏の妻「陽子」をテーマにした作品を集めた展覧会。

 

 

展覧会は時系列に写真が並んでいる。出会いから新婚旅行、夫婦の日常生活、のように。

そして現れるのが食事の写真群。この辺りから、写真から醸し出される雰囲気がどことなく変化してくる。

その後に待っているのは「陽子」の死だ。

私の涙腺は我ながらトチ狂っていると思うのだけれども、案の定この辺りで涙腺が決壊する。

誤解を恐れずに端的に言うと、「陽子」の死が悲しかったわけではない。

写真から痛いほどに伝わってくる”愛”とでも言えばいいのか、なんというか多分そのようなものの気配が、心を締め付けたのだ。

 

 

人がシャッターを切るときはどういう時か。

そらく、正の感情が沸き起こった時なのではないかと思う。

人は美しいものを愛する。だから、美しかったり愛しかったりする瞬間を切り取って保存したくなるのだ。

(もちろん汚いものや恐ろしいものを撮ることもあるが、それもある種の”美”に対する畏怖の表現手法だと個人的には思っている。)

 

 

展覧会にある写真は、一般的に言う”美”に当てはまるものばかりではない。

憮然とした顔、疲れた姿、散らかった部屋、片付けきれていない靴下…など。

私だったらこれを撮れるだろうか、と考えた。撮れないな、と思った。

この一瞬に、切り取ってとっておく価値を、私だったら見出せないなと思ってしまった。

でもそれらの写真にも、アラーキーの”愛”は詰まりに詰まっていた。

「陽子」を写したものや「陽子」の気配を感じさせるものからは、それが痛いほどに伝わってくる。

 

「この人の、この人のいる場所のどんな瞬間をも切り取りたい」と切実に思えるような誰かと共に生きることの愛しさ、幸せ、そして哀しさ。

あまりにも尊く、鮮烈で、バルコニーの写真群の前、立ちすくむしかなかった。

 

”天才アラーキー”が天才たる所以は、様々なものを心底愛せることにあるのかもしれない。

 

 

展覧会の終わり、迷いに迷って一冊だけ写真集を購入した。

愛のバルコニー

愛のバルコニー

 

 

巻末のインタビューにはこうある。

写真っていうのは”現在”がないんだよ。全部すぐ”過去”になっちゃうの。ところが、見るときにはまた全部”現在”になるんだよ。

 

再びこの瞬間を味わいたいと思える誰かとの時間を、大切にして生きていきたい。

たとえ手元にカメラがなくても、心の中でたくさんパシャパシャと写真を撮っていきたいなと、思った。

 

ほら、写真はだろ?

             ー美術手帖2017年8月号

私と哲学

哲学に救われ、哲学に生かされたと言っても、過言ではないと思っている。

哲学は私の生活の一部であり、人生の一部であり、私の構成要素の一部である。

 

大学4年の前期も終わりに近づき、卒論という壁に突き当たっている今は、自分が4年間で何を学んできたのかを、見つめ直す時期とも言えるかもしれない。

「何を勉強しているの?」と聞かれた時、私はいつも「政治哲学」と答える。

この、何の役にも立たないとも言われがちな「哲学」というものを、私はなぜ学んでいるのか。

なぜ哲学に惹かれ、哲学書に没頭し、哲学的に考えることを愛しているのか。

そのことを少しばかり、書いてみたいと思う。

(なお、文学部の哲学科に在籍しているわけではないことはあらかじめご了承いただきたい。)

 

 

幼い時より、多少、周囲の人よりも様々なことに悩むたちだった。

特に、数の概念には今も昔も苦しめ続けられている。

まず、1+1がわからなかった。1ってなんだ?2ってなんだ?数ってなんだ…?

そう思ってしまって、「1+1=2」であるということを「理解」できなかった。

悩んでも悩んでもわからなくて、とりあえず、自分の中で"理解"したことにした。

それでもやっぱり、今でも−の概念にはいつも戸惑うし、割り算やかけ算をする時には、一旦÷や×を概念のレベルにまで戻って考えないと納得ができない。

虚数など出てきてしまった時には発狂しようかと思うほどだった。

 

言葉というものも、時に私を苦しめてきた。

書物の活字も、(私の恩師の言葉を借りれば)「紙の染み」にすぎない。

なのに私は、その「紙の染み」から意味を感じ取る。

しかも同じ「紙の染み」であっても、言語が違えば全く理解ができなくなってしまう。

ひらがなカタカナ漢字とアルファベット。それしか私は「文字」だと認識できない。

「文字」と認識できても、意味を感じ取れるものは僅かだ。漢字であっても、中国語は「理解」できない。アルファベットでも、英語とフランス語は多少は読めたり読めなかったりするが、ドイツ語やイタリア語になればてんで検討もつかなくなってしまう。

なんと気持ち悪く不思議なことなのだろうか。今でも時折、活字に耐えられなくなることがあって、吐き気が止まらなくなってしまう。本が好きで好きでたまらないのに。

 

「普通」という概念には、日々息苦しさを覚えていた。

何が"フツウ”なの…?世の中の平均値…?でも、どうして、数字ではないものを平均化できるの…?

"フツウ"を求められる度に苦しかった。なんとか自分なりに"普通"と折り合いをつけ、他者と関われるようになったのは、今思えば高校1年生くらいだったのかもしれない。

いつも、家に帰って自分の部屋に入るとどっと疲れていた。小説の世界に逃げていたのは、きっと世の中とうまく折り合いをつけるためだったのだと思う。あれは儀式だったのだ。

 

 

そんな私が初めに出会った哲学者は、ソシュールだった。

彼を哲学者というか、言語学者というかは難しい問題だが、彼の構造主義的な言語哲学は、私の世界観を変えた。(言語学者の鈴木孝夫氏の書籍にも非常に救われた。)

言葉は世界を切り取り、それを知覚の対象にするということ。つまり、言葉が見えるものを形作るということ。

それを知った瞬間、私の世界は変わった。

その頃、自分の言葉と他者の言葉とは完全に同じものではないのかなと、漠然と思っていた。だって、触れてきたものが違えば、そりゃあ知っている言葉も違う。

小学生の時から毎日5冊の本(この冊数が小学校の図書館の貸し出し上限だった)を貪るように読み、中学でも高校でも暇さえあれば本を手にしていたのだから、さすがに多少は他の人よりも言葉を知っているという自負があったのだ。今思うと恥ずかしい傲慢。

私の見ている世界と、他者の見ている世界は違うかもしれない。そう思うと、少し気楽になった。同時にとっても、怖くなったけれども。

 

じゃあ私は一生、他者と分かり合えないのか。

本質的に、完全に、他者を「理解」することはできないのだろうか。

この悩みは私を四六時中と言ってもいいほど苦しめていた。

誰かを「理解」したかったし、誰かに「理解」されたかった。

自分のことがうまく伝わらなかったり、他者のことをうまく知れなかったり、そういったことがひどく辛かった。

その時に出会ったのはレヴィナスだった。

正直に言えば、レヴィナスは今でも勉強中である。私の頭脳には難しすぎる哲学者だと思っている。

でも、レヴィナスの「他者論」が私のことを救ってくれたことは事実である。

他者は絶対的に他なるものである、という諦念にも近いように思えるこの言葉は、同時に、絶対的に異なるからこそ真摯に向き合おうという心意気を感じさせる。

「他者」と「私」とは絶対的に異なるのだと考えると、楽になった。

自分が目指すべきゴールは、完全に「理解」することではないのだなと、そう折り合いがつけられたのだ。

 

そんな風に、この世の中の分からないこととの折り合いを、哲学によってつけてきた。

様々な哲学に関する書籍を読むようになって、アリストテレスの時代から、膨大な叡智が結集されても「理解」されていないことがたくさんあることを知った。

今も、学べば学ぶほど、「真実」がどこにあるのかが分からなくなっている。

「正義」とは何か。「国家」とはどうあるべきか。「倫理的」であるとはどういうことか。「平等」とはどういうものか。「公平」とはどんな状態か…挙げればきりがない。

それらのなかに、何一つとして、私が自信を持って答えることのできるものは、無い。

 

けれども、偉大なる先人が自分の前に必死で(それこそ文字通りに命をかけて)考えてきたのだという事実に、私は日々、救われる。

 

 

哲学的に考えるということは、時に大きな苦痛を伴う。

愛とはなんぞやと考えずとも、"恋愛"をすることは可能だ。

幸せとはなんぞやと考えずとも、"幸せ"を感じて生活することは可能だ。

正しいとはなんぞやと考えずとも、何かを"正しい"と判断することは可能だ。

むしろ、考えない方が、楽に息をしていけるのではないかと思う。

 

でも。私は考えずにはいられない。

辛くても、苦しくても、泣きそうになっても、毎日毎日、様々なことを考えてしまう。

それは不幸なことなのかもしれない。

考えないで生きられれば…と思うこともある。

ただ、私は哲学に出会わなければ、深い深い絶望に囚われて、とっくのとうに命を捨てていただろうということ。

それはきっと「真実」だ。

 

哲学は私にとって、この世界を生き抜くための地図のようなものだ。

広大な世界を目にしても立ちすくまずに、なんとか少しずつでも進めるのは、先人たちの叡智の結集である哲学書を抱きしめているからだ。

哲学にとって私は「他者」だし、私にとっての哲学も「他者」だ。

他者の思考を「私」のものにすることはできない。

だからこそ私は安心する。「私」のものではないから、素直に愛せるのだ。

 

これからも私は、哲学を抱きしめて生きていくのだと思う。

この世の中で生きにくさを感じている誰かにも、哲学が寄り添ってくれることを、心から望む。

 

 

平成生まれが歌舞伎を楽しむために

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「学校の鑑賞教室で見た」という人は多いかもしれないけれど、自分でお金を払ってチケットを取って歌舞伎観劇に赴いたことのある人は少ないのではと思う。

 

 私は平成7年生まれの22歳だ。

特段大学で日本文化を学んでいるわけでもなければ、親が歌舞伎好きなわけでもなかったし、日本舞踊をやっているわけでもない。(興味はあるのだけど!)

そんな私が「歌舞伎が好き!」と言うと「へえ!すごいね!」と言われることがある。

「一緒に行かない?」と誘っても「難しそうだから…」と断られてしまうこともある。

それがとっても悲しいので、知識のあるわけでもない一介の大学生なりの楽しみ方を、ここでお伝えしたい。

※不勉強はどうかお見逃しください。

 

 

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↑この前観劇した「七月大歌舞伎」夜の部の絵看板

 

 

□そもそも歌舞伎の何が楽しいのか

 歌舞伎は庶民の娯楽だ。だからその当時の庶民の生活が見えてくるし、登場人物が武士であれ貴族であれ、あらすじは単純明快。悪い人が出てきて、いい人が出てきて、叩きのめす。または、恋に悩み、恋に破れ、でもなんだかんだで幸せになる。などなど、現代とたいして変わらない。昔の人もこんなこと考えてたんだ!って思うと、色々とくだらなく思えてくる。自分の悩みが突飛なものじゃないんだなと自覚できるから、悩みも吹っ飛ぶ。

 多くの場合、演目の中で男性はチョットなよっとしたのと、イケイケのマッチョと、お笑い要員が。女性は、美人な若い娘さんと、肝っ玉母ちゃんと、悪女が出てくる。それぞれのキャラが立っているので、「あ〜この人こうなるんだろうな」と予想をしながら見ることができる。時代は違えど、自分の周りにもこういうのいるわ〜〜って思えたりして。それがすごく楽しい。

 あとこれだけは言っておきたいのだけど、女形の美しさはね、ほんとにね、すごい。すごいよ。とにかくすごいの。(語彙力がない) お着物も髪飾りももうね、3階席から見てもうわあああってなるし。目の保養すぎる。指先足先の動き一つまで美しいのだから、帰りには毎度毎度自分の日常の立ち居振る舞いを反省します…。そういう意味では、自己啓発にもなります。

 

 これ以上はもうちょっと語りきれないからやめるけれど、とにかく行けばとっても楽しい。だから、是非行ってもらいたい。なので次からは歌舞伎を楽しむためのちょっとしたコツのようなものを書いていく。

 

 

□席は3階でいい 

 歌舞伎が、というわけではないが、舞台というものは大抵そこそこ値が張る。学生にはちょっとした背伸びが必要になってしまう。

 そこでお勧めしたいのは3階のB席。この席ならば、演目にもよるが大抵3000円、高くても4000円だ。これくらいなら頑張れそうじゃない?確かに1番安い席だし、1番後ろ。だけれど私は、1階の後ろや2階の後ろの方に座るくらいなら3階の一番後ろの方がいいんじゃないかなと思っている。

 コツはなるべく上手側(舞台から見て左手、つまりはチケットを選択する画面で右側)を取ること。上手側から出ないと花道が見えなくてちょっと悲しい気持ちになる。31〜40番くらいだと舞台に近い方だけではあるが、しっかり”見得”が見えるので楽しい。

 

 

□イヤホンガイドを借りる

 歌舞伎座の会場入り口前や、歌舞伎座内のカウンターでイヤホンガイドを借りることができる。1000円の保証金を含めて1700円也。この1000円は返却時に帰って来るので、実質は700円だ。ちなみに学生証を提示すると50円引きされる。

 片耳にイヤホンをつけながら観劇するので、初めは多少の鬱陶しさはあるが、そこは我慢。舞台の進行に合わせて、役の説明や役者さんの紹介、江戸時代の風俗の説明などをしてくれる。中でもありがたいのは、長唄の意味の説明。これがあるのとないのとでは全く違う。

 オススメは、開演の5分前ごろからつけておくこと。舞台のあらすじについて説明をしてくれる。

 

 七月大歌舞伎の夜の部では、海老蔵の早着替えが見所の一つとされていた。しかし、それがもうあまりにも早い!着替えに気づかないほどに早く、イヤホンガイドで「早着替えしました」と言ってもらっていなかったら、お化粧とも相まって誰が誰だかわからなくなってしまったと思う。

 イヤホンガイドがあればこそ理解できることも多い。むしろ、このガイドさえあれば、事前に勉強していなくてもちんぷんかんぷんになることはないので、ぜひ借りてほしいと思う。

 

 

□チラシを入手しておく

 劇場内にあるラックに、その時やっている演目のチラシが置いてある。それを手元に置いておくことを強くおススメする。

 チラシの表には配役が、裏にはあらすじがあるので、見ながら適宜確認していくといい。歌舞伎では座席が真っ暗になることがあまりないので、十分に確認できると思う。当然のことなのだが。歌舞伎役者さんはお名前が似ているので、時々確認しないと混乱する…

 

 

□幕間はお散歩する

 歌舞伎は結構長いので、ずっと座っていると疲れる。七月大歌舞伎だと、16:45から始まって、なんと20:40まで!幕間が2回、30分と20分の合わせて50分あるとはいえ、なかなかな長さ。幕間は立ち上がった方がいい!

 個人的には、売店で売っている食べ物が美味しいのも歌舞伎の好きなところ。特に歌舞伎座!最中アイスに人形焼、それにおいなりさんも美味しい。他にも色々美味しそうなものが売っているのでぜひ。1階の売店には様々なグッズも売っているので、お土産にも最適。

 幕間では自分の座席で飲食ができるのも嬉しいところだ。長い方の幕間では、緞帳の紹介もあるので、豪華絢爛な緞帳を眺めながらお腹を満たそう。

 

 

□八月納涼歌舞伎は初めて観る人にオススメ!!

 興味はあるのだけど、なかなか踏ん切りが…っていう人には、間も無く発売される八月納涼歌舞伎を全力プッシュしたい。

 なぜなら、八月は3部だて、つまりは1回が短い!そして、始まる時間も3部であれば18時台だし、逆に1部であれば午後早くには終わる。他の予定との兼ね合いもつきやすいだろうし、ちょっと観てみるのに丁度いい長さだと思う。

 

 

最後に一言。

平成生まれでも、歌舞伎は楽しい!!

以上です。

"作品をみる"ということについてー東京都美術館「バベルの塔展」ー

 しとしと雨が降るなか、昨日は東京都美術館に行った。(私が美術館に行こうとする日はたいてい雨が降っている気がする。何故だ。)

 またも会期末ぎりぎりの訪問。混んでいることを予想して、9:30の開館前に美術館に着いた。

その時点ですでに結構な人が並んでおり、今日って休日だったっけ…?と混乱した。

 

 開館してすぐ、多くの人がチケット購入の列に並んだ。

私はすでに上野公園入り口(西洋美術館の入り口横)の「公園案内所」で当日券を購入していたため、すぐに会場に入った。

 ちなみにこの「公園案内所」、公園内のたいていの展覧会の当日券を扱っている上、ほとんど並ばない。割引券が使えない点は悲しいのだけれども、それ以外では使わない理由はないと思う。おすすめです。学割はききます。

 

 

 会場の説明書きにもあったが、ネーデルランドの美術品には「作者不明」のものが多いらしい。

展覧会のはじめのコーナーでは、作者欄が「不明」のものが多く展示されていた。

 

 私達はたいていの場合「○○の作品」という括りで美術品を見る。

私はジャクソン・ポロックの"作品"が好きだし、ソール・ライターの"作品"に感動した。そういったとき、私はその"作品"に惹かれていたはずだ。

 しかし、時に「○○の作品」だからすごい!と思ってしまうこともある。イタリアでボッチィチェリを見た時、ダヴィンチの「最後の晩餐」を見た時、私は本当にそのもの自体の価値を見ていたのだろうか。

 もしかしたら、「○○の作品」という価値しか見れていなかったのではないだろうか。

 

 今回の「バベルの塔展」に関していえば、恥ずかしながら作者のこともその作品の有名さも知らずに訪問した。

 そこで「作者不明」の作品にも数多く出会ったわけだが、そのどれもが単純に美しかったし興味深かった。

 ヒエロニムス・ボスの作品は初めて見たけれど、どれもシニカルで、好きになれた。

 ブリューゲルがどういう人なのかはよく知らないままで行ったけれど、ブリューゲルの作品はどれも素敵だった。

 

 

 芸術をどう楽しむことが最も誠実なのか、私にはまだ分からないけれど。

予備知識なく新鮮な気持ちで向き合うのもまた良いものだなぁと、そんなことを思った展覧会だった。

辛くなった時に読む本 :『カイルの森』

「この本に救われた」と言うと、大げさに聞こえるかもしれない。

確かに「救われた」とまでは言えないだろう。

きっと本に出会えていなかったとしても私は生きていただろうし、なんとかかんとか頑張っていたはず(だと思いたい)。

だが、『カイルの森』が私の思考と、そして生き方に与えた影響は計り知れない。

 

 

カイルの森 (角川文庫)

カイルの森 (角川文庫)

 

 

これは、詩人として有名な銀色夏生さんの小説だ。

小説と言うのか憚られるほど、全編があまりにも詩的で美しい。さらには、どことなく戯曲のような雰囲気もある作品だと、私は思う。

 

 

主人公は「水色と灰色と若草色がまざったような気配をもつ、美しい星」に住む園芸家のカイル。愉快な妖精たちや、魔術師と共に暮らしている。自分の星の王子様だけだなく、隣の星の「たまご王子」にも慕われる人気者だ。

カイルの住む「第七星」では、前王が設置した「ダスト・シューター」が各家にある。これは、「ケンカしてもひとりごとでもなんでも悪い言葉や考え」を捨てるもので、悪意はここに捨てることが法律で定められている。悪い言葉が聞こえてこない星は、一見とっても平和だった。

だが、ある時、星の森の奥から、黒い化け物のような何かが出てくる。戦おうとする星の人たちを前に、カイルは葛藤する。

 

 

と、ざっとこんな感じのお話。

正直なところ、この本のあらすじだけを聞いて惹かれる大人は稀だとも思う。

けれども、作中に散りばめられた言葉たちが、とにかく素敵だということに注目してほしい。

 

願い事は、未来の自分にするんだよ。

 

カイルはいつだって、私が誰かに言ってもらいたいこと、叱ってほしいことを言ってくれる。

誰かに頼るのではなくて、自分で自分を信じて、周りの人を信じて、切り開いていくしかないんだなと思わせてくれる存在である。

 

読み進めながら、鮮やかな緑の森が、艶やかな花の色が、きらきらの木漏れ日が、目の奥に浮かんでくるところもすごいところだ。

表紙が真っ白なのは、そういった心の中の風景を邪魔しないためなのではなかろうか。

 

 

あー最近うまくいかないなー疲れたなーやだなーつらいなーっていう時、ぜひ手にとってほしい。

ちょっと見方を変えてみれば、立ち向かわなくてはならないと思っていたものは、敵ではないのかもしれない。

 

「怖いものを見ても、その表面ばかりに気をとられてはダメだよ。本当はちっとも怖いことなんかないんだ。怖いものって、怖がると、いっそう怖くなっちゃうんだよ」

 

カイルはこうも言う。

「悲しみの中にも喜びの種があって、喜びの中にも悲しみの種があるんだ。どんなものも両方の要素をもってる。どちらも感じられるようにならないとね。それができるようになると、悲しみにとらわれすぎたり、喜びにおぼれたりすることがなくなって、こころが安らかになるよ」

 

怖いものを怖がりすぎてはいけない。悲しみにおぼれては勿体無い。

 

「悲しむことはしょうがないけど、悲しみすぎるのはよくないよ。(…)

ずっと悲しみの中に生きているような人は」

「そういう人は、優しい人なの?」

「違う。弱い人だよ。自分がなくて寄っかかってるんだ、そっちに。悲しむことで見たくないものを見ないふりしてる。」

 

毎日嫌なことも大変なこともあって、辛くなっちゃう時はあるけれど。頑張ろ。

ソール・ライター展で泣いたーBunkamuraミュージアム「ソール・ライター展」ー

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6月21日、暴風の渋谷で傘をひっくり返しつつ、よたよたとソール・ライター展に行った。

 

めちゃくちゃ良かった。

ほんとうに。思い出すと語彙力が低下するくらいに良かった。

 

 

 私は、昔から美術館が好きだ。

ごく一般的な大学生にしては足を運んでいる回数も多い方だとは思う。

今までに美術館で泣いたのは3回。

東京国立近代美術館「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」(2012)、大原美術館のエル・グレコの「受胎告知」(来訪は2013年)、そして今回のBunkamura「ソール・ライター展」だ。

 

 

ソール・ライターは、ニューヨークで活躍した写真家である。

初めは『Harper's BAZZAR』『VOGUE』『ELLE』など名だたるファッション誌に写真を提供していた。しかしある時、姿を消して「隠遁」。

その後83歳で写真集を発刊し、衝撃の「デビュー」を飾った。
元々は画家を目指していたという彼の写真は、その目の付け所といい切り取り方といい、どことなく「絵」に近い雰囲気を感じさせるものだった。
アーティストについては私が話したところでGoogle検索に勝てる筈もないのでこれまでにしようと思う。

ちなみに言うと、映画にもなっている。これまたとても良い。(私がソール・ライターを知ったのはこの映画がきっかけだったりする)

 

 



 

 ソール・ライター展は、大まかに分けてモノクロ写真とカラー写真と絵画(写真へのペインティング含む)で構成されている。

会場に入ると、カラーとモノクロが混在した商業ファッションスナップから始まり、次にモノクロの芸術写真、さらにはカラー写真、そして絵画、最後に女性の写真が並ぶ。

 

 この、カラー写真のゾーンの始まりで、気がついたらぽろぽろと涙が流れていた。

もちろんモノクロ写真も素晴らしかった。

特に「靴磨きの靴」は、琴線に触れた。

 

展示室の壁にあった以下の言葉が、彼の写真の雰囲気をとてもよく伝えていると思う。

写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ。

ー『ソール・ライターのすべて』P.104

 

カラー写真は本当にすごかった。

彼の切り取る日常にありふれた"色"の美しさが。

曇ったガラスの奥の誰かの力強さが。

当たり前の光景を、時を止めて見た時の新鮮さが。

そういったものが、少し疲れていた私の心をブワッと溶かしていった気がした。

 

ありふれているものも、すべてが美しくて。

ファッションスナップな登場するような人々には到底及ばないであろう「だれでもない人」でも、充分に美しかった。

そして、ピントが合うことだけが美ではないと感じた。

 

取るに足らない存在でいることには、はかりしれない利点がある。  

ー『ソール・ライターのすべて』P.10

 

何気なくても、主役にならなくても、ピントがあってはっきりしていなくても、それで充分。

様々なものを語れる「背中」を手に入れられれば、それでいいなと思えた。

 

人の背中は正面より多くのものを私に語ってくれる。

ー『ソール・ライターのすべて』P.92

 

言葉にするとあまりにも陳腐で自分でも呆れ果てるほどなので、是非とも図録を手にとっていただきたい。

(展覧会は6/25で終わってしまう…)

 

All about Saul Leiter  ソール・ライターのすべて

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